街道歩きのマメ知識

街道・旧道を歩いてみよう

うえ

ねの

らりるれ


間の宿
あいのしゅく
 宿場間の休憩地点で規模の大きいもの。宿場間の距離が長い中間地点や峠越えを控えた難所などに、茶屋などの休憩施設や店屋が開かれ、1つの集落として発展した。
 大名の財政が苦しくなると、経費節減のため本陣脇本陣を使用せず、間の宿を利用することが多かった。そのため、江戸幕府は正徳5年(1715)・享保8年(1723)・文化2年(1805)に、宿場保護のため間の宿での宿泊を禁止した。
 東海道では、小田原宿・箱根宿間の畑宿、吉原宿・蒲原宿間の岩淵、金谷宿・日坂宿間の菊川、知立宿・鳴海宿間の有松、石部宿・草津宿間の旧和中散本舗などが有名。
秋葉山
あきはさん
常夜灯(じょうやとう)
伊勢参り
いせまいり
 寛永12年(1635)江戸幕府は「武家諸法度」を改定し、諸大名の参勤交代が制度化される。これにより宿場や街道などの機能が充実し、本格的な旅のインフラが整えられた。
 しかし、庶民の旅には制約が多く、社寺参詣を目的とする信仰の旅でなければ、旅に出ることは難しかった。その代表格が伊勢参り。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、弥次さん喜多さんが伊勢神宮へ旅立っている。このほかには、金比羅参り、八十八箇所札所巡り、西国・板東・秩父観音札所などの巡礼の旅がある。
 「講」を組織して費用を積み立て、くじ引きなどで代表者を決めて参宮する「代参(だいさん)」というスタイルが一般的。江戸周辺からは東海道を上り、伊勢参宮の帰りに京都・奈良・大坂などの名所・名刹を巡り、中山道経由で長野善光寺に立ち寄って戻るといった、約2カ月の旅も珍しくなかった。
 お陰参りは伊勢神宮のお札が降ったという噂がきっかけで、約60年周期で爆発的なブームとなる伊勢参り。慶安3年(1650)が江戸期初の大ブームで、3カ月で1日平均約2千人が参詣した。江戸時代の庶民は一生に一度は「伊勢参りをしたい」と願っていたが、伊勢講を組んで代参してもらうのが精一杯で、下層民には無理だった。しかし、お札が降ったということは、伊勢の神が参宮を勧誘していると考えられ、無断で参宮しても大目に見られた。参宮者を助けることは功徳になると考えられ、道中の施行の“おかげ”で伊勢参りができることから「お陰参り」と呼ばれる。着の身着のままで、頭には笠、手には柄杓1本というスタイルが一般的で、往来手形も、関所手形も、旅費さえもいらない“夢の旅”だった。
 抜け参りは少年少女だけの伊勢参り。親や主人に無断でも大目に見られた。普段着のまま、手柄杓1本で出かけた。
板石塔婆
いたいしとうば
 主に供養塔に使われる石塔の一種で、板碑(いたび)とも呼ばれる。その名の通り板状に加工して、上部が三角に尖り、正面に梵字が刻まれている。中世の関東地方を中心に作られた。主に秩父産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)が使われ、青みがかっているものが多い。
板碑
いたび
板石塔婆(いたいしとうば)
一里塚
いちりづか
 交通施設の1つで、街道の両側に1里ごとの目印として木を植えた塚。五間(約9m)四方の盛土に榎・松などを植えた。慶長6年(1604)江戸幕府は江戸日本橋を五街道の起点とし、東海道・中山道・北陸道の3街道に1里(36町≒3.93km)ごとの一里塚設置を命じる。豊臣秀吉が一里塚を築いたことがあるが、本格的に整備されたのはこの時が初めて。
 旅人は一里塚を行程の目安とし、木陰を休憩場所にした。付近に茶屋が開かれ、立場となることも多かった。幕末になると一里塚は荒廃するが、幕府は積極的な対策をとらなかった。
 東海道では、日本橋から9里目の品濃・28里目の錦田・37里目の岩淵・84里目の来迎寺などが、ペアで現存している。
追分
おいわけ
 道路の分岐点。三叉路の丁字路(T字路)・二又のY字路など、幹線街道と支線街道の分かれ道。進行方向や目的地・距離などを示した道標が設置された。茶屋が開かれ、立場となることも多かった。
 東海道では江尻宿の「追分ようかん」、四日市宿・石薬師宿間の伊勢街道との分岐点・日永の追分、草津宿の中山道との分岐点・追分見附などが有名。
往来切手
おうらいきって
往来手形(おうらいてがた)
往来手形
おうらいてがた
 身元証明書と旅行許可証を兼ねたパスポート。菩提寺の住職や名主が発行する。名前・住所・旅の目的や、旅先で病死した時はその土地の作法による処置を依頼し、後で菩提寺に知らせてほしいと書いてあった。住まいのある藩領を出ると、他国は外国なので、旅の必需品だった。
お陰参り
おかげまいり
伊勢参り(いせまいり)
御仮屋
おかりや
御殿(ごてん)
御茶屋
おちゃや
御殿(ごてん)
女手形
おんなてがた
 関所手形の1つで、女性用のパスポート。「女切手」「女証文」とも呼ばれる。手形なしはもちろん、記載不備があっても関所の通行はできなかった。天和元年(1681)丸亀藩出身の歌人井上通女が22歳の時に江戸へ向かう際、「小女」と書くべきところ「女」と記載されていたため、新居の今切関所で足止めされた。
曲尺手
かねんて
枡形(ますがた)
川会所
かわかいしょ
 川越を管理する役所。旅人の禁制破りや川越人足の不正行為、旅人から法外な賃銭を騙し取っていないかなどを取り締まった。
 元禄9年(1696)大井川の川越制度が制定され、川庄屋が川越業務を行う。しかしトラブルは多かったようで、正徳元年(1711)江戸幕府は川会所で買った川札で川越を行うように、東海道の川越規則を定める。川札の値段はその日の水深で決められ、増水で川越が危険な場合は川留とした。
川越
かわごし
 歩行(かち)渡し。江戸幕府は、治安維持のため大きな河川の架橋を禁止して、諸大名に対し軍事的な優位性を保った。そのため旅人は川会所で川札を買い、肩車(かたくま)や蓮台渡しなどの徒歩による川越が強制された。
 東海道では酒匂川興津川安倍川などで、特に大井川が有名。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と馬子唄で歌われた。明治4年(1871)明治政府が川越を廃止するまで続いた。
観音
かんのん
 観世音菩薩。様々な苦しみの声を聞き、様々な姿に変身して衆生を救う菩薩。世の中のありとあらゆる衆生を救うために、(しょう)観音十一面観音千手観音馬頭観音・如意輪観音准胝(じゅんでい)観音など、いろいろな姿に変身する。
 苦しむ衆生に合せて観音が臨機応変に33種類の姿に変身するという信仰から、33箇所の霊場を巡拝参拝する「三十三観音巡り」が流行した。西国・坂東・秩父などが有名。
木賃宿
きちんやど
 食事なしの宿。旅人は米や干飯などを持ち込んで、自炊するための湯代や薪代として宿代を支払う。宿泊料は安価で旅籠屋の1/3〜1/10程度だった。
木戸
きど
見附(みつけ)
雲助
くもすけ
 助郷の代役として宿場に雇われた人足。多くは住所不定の無宿者で、「飲む・打つ・買う」のその日暮らしだった。
 農繁期の助郷農民は宿場の応援ができない代わりに、金銭を代納して課役を逃れた。宿場はこの代納金を元に人足を雇って、農民の代わりに助郷の仕事をさせた。
高札場
こうさつば
 江戸幕府や藩主などが発令した、法度・掟・犯罪者の罪状などを記した「高札」や「立て札」を掲示した場所。宿場内や関所追分渡船場・橋詰めなど、旅人の目につきやすい場所に設置された。
 人々が行き交う交差点(辻)に設置されることが多く、札の辻とも呼ばれる。東海道では、品川静岡大津などに、地名として残っている。
庚申塔・庚申塚
こうしんとう・
こうしんづか
 60日ごとに巡る「庚申」の晩を眠らずに過ごし、健康長寿を願う「庚申信仰」によって建立された供養塔。庚申信仰とは、人の体内に棲む「三尸(さんし)」という虫が庚申の晩に天に昇り、閻魔王の家来「司命(しみょう)」に罪過を報告して人の寿命を縮めるというもの。庚申待(こうしんまち)として、徹夜して眠らなければ三尸は司命に報告できないため、長生きできると信じられた。平安時代に伝来し、室町時代に全国に広まり、江戸時代にブレイク。飲食を共にしながら徹夜する「講」を組織して、年6回の庚申待を3年連続して計18回行い、供養のために庚申塔や庚申塚などを建立した。
 庚申の本尊は、仏教では青面金剛(しょうめんこんごう)や帝釈天、神道では猿田彦神としているので、庚申の「申(さる)」が猿田彦の「猿」と結び付けられた。そのため庚申塔には「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫られることが多い。
 庚申は十干の「庚(かのえ)」と十二支の「申」を組み合わせた干支(かんし)で、年・日などに最小公倍数の60を当てはめている。最後の庚申の年は昭和55年(1980)で、次回は令和22年(2040)。60歳を「還暦」というのは、暦が一巡して生まれた年の干支に還るためで、本来は数え年で61歳のこと。
五街道
ごかいどう
 江戸幕府の道中奉行が直轄支配した主要街道で、江戸日本橋を起点とした東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の5道。享保元年(1716)五街道などの呼称が改定統一され、日光・奥州・甲州の3街道は「道中」が正式名称となる。
 一部を除き、五街道以外の脇街道は勘定奉行の取扱い。
常備人馬数
東海道 100人100疋
中山道 *50人50疋
日光・奥州・甲州3道中 25人25疋
*中山道の木曽路(贄川宿〜馬籠宿)は25人25疋
御殿
ごてん
 大名、特に徳川将軍家の休憩・宿泊施設。江戸時代初期の街道や宿場が整備されるまで、京への上洛や江戸・駿府間の往復・鷹狩りなどに使用された。御茶屋御仮屋とも呼ばれる。
 4代将軍家綱の時代、天和元年(1681)頃までにはほとんど廃止された。品川・小杉・平塚・御殿場(そのまんま…)・三島蒲原などには地名として残っている。
五輪塔
ごりんとう
 墓・供養塔などに使われる仏塔の一種。平安時代末期から流行した。万物を構成する「地水火風空」の5つの要素(五大)を表す五輪(下から地輪・水輪・火輪・風輪・空輪)を積み上げたもの。宝篋印塔とともに石造物が多い。
塞の神
さえのかみ
道祖神(どうそじん)
参勤交代
さんきんこうたい
 寛永12年(1635)江戸幕府は「武家諸法度」を改定し、諸大名の参勤交代が制度化される。「参勤」は大名が将軍への服属儀礼として、一定の期間江戸に参府すること。諸大名は妻子を人質として江戸屋敷に置き、1年おきに江戸と国元で過ごすことを義務づけられた。毎年春に参勤交代として、東国と西国の大名が参府と帰国の入れ替えをした。
 参勤交代の制度化によって宿場・街道などの機能が充実し、本格的な旅のインフラが整えられる一方で、江戸での生活費と参勤交代の費用が藩の財政を苦しめた。しかし、幕藩体制が崩壊する幕末になると、文久2年(1862)参勤交代制度が緩和され、諸大名の妻子の帰国が許可される。
地蔵
じぞう
 地蔵菩薩。釈迦入滅後の56億7千万年後に弥勒が出現するまで、苦しみの世界である六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)を輪廻する衆生を救う菩薩。六道の救済に当たることから六地蔵の信仰が生まれた。奈良時代に唐から伝来していたが、中世の浄土教普及とともに広まった。
 また、子供を守り、幼くして死んで賽の河原で苦しむ子供を救うと信じられ、子守地蔵・子育地蔵などの信仰につながる。
七里役所
しちりやくしょ
 「大名飛脚」の1つで、元和五年(1619)家康の十男・徳川頼宣が紀州藩に転封(国替え)となった後、紀州徳川家が幕府の動向をいち早くキャッチするため、七里ごとの宿場立場などに設置した中継所。“お七里衆”と呼ばれる七里飛脚が数人ずつ配置された。
 同じ御三家の尾張徳川家・水戸徳川家や、松江藩・姫路藩なども七里飛脚を設置している。
宿駅
しゅくえき
宿場(しゅくば)
宿場
しゅくば
 宿駅。江戸幕府が街道沿いの交通の要地として認め、人馬の継ぎ立て業務を命じた集落。宿場の役割は以下の3つ。
1.公用人馬の調達
2.公用文書の輸送
3.旅行者の宿泊
 宿場の中心地では宿駅としての施設、問屋場本陣脇本陣などが整えられ、幕府によって管理された。そして旅籠屋や店屋などが並び、宿はずれの見附周辺に旅人をもてなす茶屋が置かれるというのが一般的な配置。
常夜灯
じょうやとう
 旅人の夜間の便をはかるための灯籠。主に石製で神社の境内や参道のほか、街道の追分にも多い。道標の役目を果たしたり、渡船場では灯台にもなった。
 「秋葉(山)常夜灯」と記された灯籠は、古くから「火伏せの神」として祀られた秋葉(あきは)山信仰によるもの。信仰や供養の証として、人々が各地に寄進した。
助郷
すけごう
 宿場周辺の村々をあらかじめ「助郷村」と指定し、宿駅常備の人馬が不足する場合、課役として応援させる制度。寛永14年(1637)江戸幕府は道中助馬の制を定め、元禄7年(1694)助郷制が正式に実施される。
 慶長6年(1601)に定められた伝馬は、東海道・中山道で各36疋だったが、寛永15年(1638)には東海道100疋・中山道50疋と改定された。その後は助郷制が確立されたため改定されず、年々増加する交通量の差額が宿場と助郷村の負担となる。新たに加えられる助郷村も増え、農村が疲弊し、百姓一揆の原因となって、明和元年(1764)中山道の増助郷反対の一揆「伝馬騒動」が起こる。
関所
せきしょ
 旅人の通行や荷物の移動・情報の行き来を取り締まり、管理する役所。関所には番所が置かれ、武士や役人が常駐し、旅人の素性や荷物などを検査した。関(所)は古代では天皇崩御や謀反があった時に関を固める軍事的な役割、中世では通行料を徴収する経済的な役割、近世では警察的な役割を果たした。
 徳川家康や江戸幕府は宿場や街道などのインフラ整備を進める一方、人馬の往来を妨げる関所を全国に53カ所設置した。東海道では、慶長5年(1600)に設置された新居今切関所と、元和5年(1619)に設置された箱根関所がある。
 「入り鉄砲に出女」は江戸に武器が入ることと、江戸に人質として住まわせた大名の妻子が国元へ逃げ出すことを、関所がチェックしていたことを表す。大政奉還後の明治2年(1869)明治政府によって諸道の関所が廃止される。
関所手形
せきしょてがた
 旅人が関所を通過する時に必要な身元証明書。大家や名主が発行する。往来手形が一人1通必要であるのに対して、関所手形はグループ内で1通あればよかった。
 武具を江戸方面へ搬入するためのもので老中が発行する「鉄砲手形」や、女性のパスポートである「女手形」もある。
大名行列
だいみょうぎょうれつ
 大名とその家臣・従者が参勤交代のため江戸と国元を往復する行列。行列の規模や内容は大名の石高や格によって決められていた。小さい藩で100人弱、大きい藩では2〜3千人になり、加賀藩の場合は多い時で約4千人にもなった。通過する街道もあらかじめ指定されていて、文政年間(1818〜30)では東海道の146家から甲州道中の3家とさまざま。
参勤通行大名数
@文政年間
東海道 146家
中山道 30家
日光道中 41家
奥州道中 37家
甲州道中 3家
 大名行列は「いざ鎌倉」が基本の武将が率いる軍隊なので、刀・弓・鉄砲などの武器や、食品・食器・衣類などの生活用品を運び、調理人や医者なども加わった。参勤交代で江戸や国元に入る時は、先頭の奴が毛鑓を振ったり投げ合ったりして行列をアピールした。
立場
たてば
 宿場間の休憩地点で、規模の小さいもの。茶屋が開かれ、道中の旅人を相手に商売をした。一里塚追分・峠などに多い。茶屋が増えると茶屋町となり、規模が大きくなると間の宿へと発展した。
茶壺道中
ちゃつぼどうちゅう
 江戸幕府が将軍に献上する宇治茶を茶壺に詰め、江戸まで運ぶ行事。慶長18年(1613)幕府は宇治茶の上納を命じる宇治採茶師を初めて派遣し、寛永10年(1633)に制度化される。
 毎年4月下旬〜5月上旬に茶壺付添人が茶壺ともに江戸を出発。到着後9日目に茶を壺に詰めて、詰め日から7日目に出発した。復路は、当初甲斐国都留郡谷村(やむら=山梨県都留市)で夏を越すため中山道・甲州道中経由だったが、後に元文3年(1738)江戸城に直接運び込むため東海道経由となる。ただし茶葉は湿気を嫌うため、桑名宿宮宿間の七里の渡しや今切の渡しを避け、美濃路・本坂通り(姫街道)を利用した。
 行列は人足を含めると最大550名にもなり、格式も摂家門跡に準じる高さなので、大名は駕籠を降り、庶民はかぶり物を取ってしゃがまなければならなかった。街道筋の宿駅や農繁期と重なる村々の負担は大きく、天和元年(1681)甲府宿で用意した人馬は人足1,140人・馬161疋にも及ぶ。「ズイズイズッコロバシ胡麻味噌ズイ、茶壺に追われてトッピンシャン♪」という童歌は、茶壺道中を風刺した歌と言われている。
 8代将軍徳川吉宗の行った享保の改革による倹約令で簡素化され、享保8年(1723)江戸から宇治に運び出す茶壺は3個に限定され、経費削減を図った。慶応3年(1867)江戸幕府の終焉によって、毎年休みなく235回続いた茶壺道中も、その役目を終える。
茶屋
ちゃや
 宿泊を伴わない休憩施設。旅人はお茶とともに名物の団子や餅などを食べたり、昼食をとったりした。宿場では宿はずれの見附周辺に数軒から数十軒置かれ、宿内の旅人を相手に商売をした。立場間の宿にも茶屋が開かれた。
伝馬制
てんませい
 徳川家康は慶長6年(1601)東海道に、慶長7年(1602)中山道に「伝馬制」を定め、宿駅ごとに人馬を常備することを命じる。伝馬制は、幕府の公用旅行者や公用文書・荷物などを、宿場ごとに人馬を交替して、リレー式で送る継ぎ立て制度。古くは大化2年(646)「改新の詔」で「駅間(はゆま)」「伝馬(つたわりうま)」の設置が定められたのが始まり(しかし、実施されるのは大宝元年(701)大宝律令で駅馬・伝馬制が成文化された後とされる)。
 東海道では、江戸から京都までの間に53の宿場があり、53回の継ぎ替えをするため「53次」と呼ばれる。
問屋場
といやば
 宿場の公用業務である継ぎ立てを行う事務所。幕府の公用旅行者のために、宿泊場所や人馬を手配したり、公用文書や荷物などを運ぶ継飛脚を管理する。
 問屋は宿場の名家や有力者が請け負った名誉職。24時間営業で業務は多岐にわたり、忙しい割には報酬は少なかった。
東海道中膝栗毛
とうかいどうちゅう
ひざくりげ
十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
道祖神
どうそじん
 旅の安全を守る道の守護神。また、村はずれで外部からやって来る疫病や災害から村を守ってくれる神でもある。塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる。
 民間信仰と結びついて、夫婦円満・子孫繁栄・五穀豊穣などを願って信仰されることも多い。中部・関東地方では一組の人像を並列させた双体道祖神、甲府盆地周辺では球体の石を祀った丸石道祖神など、個性的な道祖神が見られる。
道標
どうひょう
 道しるべ。追分や辻など街道の要所に、進行方向や目的地・距離などを、石や木などに記して設置された。庚申塔常夜灯などが道標を兼ねる場合もある。今でも各地に石造の道標が残っている。
渡船
とせん
 その名の通り舟渡し川越ができない急流や水深のある河川では渡船した。東海道では、六郷川(多摩川)・馬入川(相模川)・天竜川などの河川の渡しと、舞阪宿・新居宿間の「今切の渡し」や宮宿桑名宿間の「七里の渡し」などの湖上・海上の渡しがあった。
留め女
とめおんな
 旅人を泊まり客として宿に引き入れることを職業とする女性。厚化粧で旅籠屋の前に立ち、客を宿に引き入れた。
 東海道の御油宿では、隣の赤坂宿と1.7kmしか離れていないため、留め女の客引きが凄まじかったらしく、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の『御油 旅人留女』にも描かれている。
並木
なみき
 交通施設の1つで、街道の両側に松・杉などの樹木を植えたもの。古くは奈良時代、天平宝字3年(759)諸国の駅路に果樹を植えたのが初め。慶長6年(1604)江戸幕府は一里塚の設置とともに、「並木」の植樹を命じる。宝暦12年(1762)・安永元年(1772)をはじめ、幕府からたびたび並木管理についての法令が出され、補修や整備・植樹や伐採などは厳しく規制された。
 並木は街道自体の存在を示すとともに、風雨や日差しから旅人を守った。今でも旧街道の所々に並木が残っていて、東海道では国指定史跡箱根杉並木や国指定天然記念物御油の松並木が有名。
抜け参り
ぬけまいり
伊勢参り(いせまいり)
旅籠屋
はたごや
 本陣脇本陣が要人の宿であるのに対して、一般の旅人や公用でない武士が利用した、一泊二食付きの宿泊施設。江戸初期では木賃宿が主流だったが、庶民の旅が盛んになる享保年間(1716〜36)以降は旅籠屋が主流になっていた。平旅籠と飯盛女を置いた飯盛旅籠の2種類があり、本陣や木賃宿が平屋なのに対して、旅籠屋は2階建てが一般的。
 東海道では宿場平均55軒で、多いところでは宮宿の約250軒、少ないところでは石薬師宿庄野宿の15軒で、宿場の規模で数はまちまち。宿泊代は時代・天気によって変化するが、上宿で200〜300文、中宿で150文前後、下宿で100〜150文が相場。
飛脚
ひきゃく
 文書・荷物などを輸送する制度と、その制度で輸送を職業とする人。飛脚制度は鎌倉時代に始まり、文治3年(1187)源頼朝が京・鎌倉往還の飛脚行程を早馬で7日間と定める。
 慶長20年(1615)江戸幕府は江戸・大坂間の公用飛脚「継飛脚」を制度化する。継飛脚は昼夜問わず2人1組になって走り継いだ。諸大名もこれにならい、七里飛脚をはじめ、江戸と国元を結ぶ大名飛脚を設置した。
 寛永16年(1639)大坂で江戸・大坂間を結ぶ民間の町飛脚で月に3度往復する「三度飛脚(三都飛脚)」が始まり、伝馬使用も認められた。町飛脚は大坂の三度飛脚や、江戸の「定飛脚」・京の「順番飛脚」とともに普及する。飛脚は江戸・大坂間を通常4〜12日で送達した。「三度笠」は三度飛脚が使用した浅い菅笠。
札の辻
ふだのつじ
高札場(こうさつば)
不動
ふどう
 不動明王。仏教の尊格である「明王」の中心格。忿怒の姿で人々の一切の煩悩と迷いを断ち、すべての衆生を救う仏さま。密教の最高仏である「大日如来」の化身とも言われる。
 大山参りでは「石尊大権現(阿夫利神社)」を参詣するが、神仏習合による別当寺である「大山寺」が不動明王を祀っているため、道中で不動尊が乗る道標が散見する。
船会所
ふなかいしょ
 渡船を管理する役所。
宝篋印塔
ほうきょういんとう
 墓・供養塔などに使われる仏塔の一種。元は「宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)」を納めるための塔で、鎌倉時代中期頃から流行した。構造は下から基礎・立方体の塔身・隅飾のある階段状の笠・棒状の相輪を積み上げたもの。五輪塔とともに石造物が多い。
棒鼻
ぼうばな
見附(みつけ)
本陣
ほんじん
 宿場の宿泊施設で、幕府の役人や参勤交代の大名・公家などの要人が、公用の旅で利用する民営の宿舎。幕府公認の由緒正しい宿泊施設で、玄関・門・書院を設置することが許された。
 元は天皇が朝覲行幸する際の、行列の中心である鳳輦を囲む一陣。その後軍の総大将がいる本営を意味し、転じて大名の宿陣の名称となった。宿場の名家や有力者が請け負った名誉職で、本陣の主人は苗字帯刀を許された。
 しかし、要人しか泊めることができないので経営難となるケースが多かった。そのため、江戸幕府は正徳5年(1715)・享保8年(1723)・文化2年(1805)に宿場保護のため間の宿での宿泊を禁止した。しかし、大名の財政が苦しくなると、経費節減のため本陣・脇本陣を使用せず、間の宿を利用することが多かった。
 東海道では二川宿の馬場本陣(二川宿本陣資料館)と草津宿の田中本陣(国指定史跡草津宿本陣)が一般公開されている。
馬子
まご
 馬に人や荷物をのせて運搬することを職業とする人。ことわざの「馬子にも衣装」は、ちゃんとした衣装を身につければ誰でも立派に見えるという意味で、ほめ言葉ではない。
枡形
ますがた
 宿場の出入り口で直角に折れ曲がった道で、城中で敵やくせ者の侵入を防ぐための構造が応用されたもの。また軍事目的とは別に、大名行列同志が宿内で鉢合わせしないための工夫でもあった。見張り役が先を行き、格の高い大名が来た場合には知らせて、寺などに緊急待避した。
 東海道の城下町では掛川宿の「新町七曲がり」・岡崎宿の「二十七曲がり」などが有名。城下町以外では蒲原宿新居宿白須賀宿二川宿などで見ることができる。
見附
みつけ
 宿はずれの両側にある宿場の出入口。都市部の要所にも設置され、木製の開き戸の門(木戸)があり、番屋が併設されるというのが一般的。昼間は出入り自由でも、夜間や非常時には門戸を閉め、通行制限をする場所もあった。
 東海道では、江戸側の見附を江戸方見附・東木戸・江戸口門など、京都側を上方見附・西木戸・京口門など、宿場によって呼び名は異なる。棒鼻とも呼ばれる。
飯売女
めしうりおんな
飯盛女(めしもりおんな)
飯盛女
めしもりおんな
 飯盛女は旅籠屋で泊まり客の世話をする女性で、その多くは客と枕を共にした。万治2年(1659)江戸幕府から東海道の宿場に遊女禁止令が出されていたので、幕府黙認の娼婦といえる。享保3年(1718)宿場の飯盛女が旅籠1軒につき2人以内に制限されるが、なかなか守られなかった。
六地蔵
ろくじぞう
地蔵(じぞう)
脇本陣
わきほんじん
 本陣の補助的な宿舎で、“副本陣”として代用された宿泊施設。本陣と同じく、玄関・門・書院を設置することが許された。脇本陣は通常は旅籠屋(平旅籠)として営業していたので、要人専用の本陣が平屋なのに対して、2階建てが多い。
渡し
わたし
歩行渡し川越(かわごし)
舟渡し 渡船(とせん)
草鞋
わらじ
 稲藁で編んだ履物。江戸時代以前の庶民は普通裸足だったが、江戸時代に草履や下駄が日常の履き物として発達した。草鞋は足に固定されているため、旅や労働の際に使用されたが、傷みやすいため、何度も履きかえて使われた。
 当時馬には蹄鉄はなく、人間同様に草鞋を履かされていた。

 「街道歩きのマメ知識」です。街道・旧道を歩いていると、神社仏閣・名所旧跡を訪ねた時に、街道歩きの専門用語が分かった方が面白いんじゃないの?と思い、歴史好きってのも手伝って、用語集を作ってしまいました。(^-^;

 「街道歩きのマメ知識」は、
『完全 東海道五十三次ガイド』東海道ネットワークの会/講談社
『日本全史』講談社
『江戸時代館』小学館
『日本交通史』児玉幸多編/吉川弘文館
コトバンク(http://kotobank.jp/)
ウィキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/)
各地の案内板や、市町村のホームページなどを参考にして作成しました。

とらぞう
最終更新日:2022年 6月 3日

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