スライドショー01 スライドショー02 スライドショー03 スライドショー04 スライドショー05 スライドショー06 スライドショー07 スライドショー08 スライドショー09 スライドショー10
バナー

Vol.08 熊谷宿深谷宿

(10.8km)


英泉「熊谷宿 八丁堤ノ景」 宿場

2010年 6月 5日(土)

 熊谷宿といえば、まず思い浮かぶのが熊谷直実源頼朝の御家人で、質実剛健な板東武者のイメージ。飯盛女を置かなかった熊谷宿とイメージが重なる。国内最高気温を記録しても、「あついぞ!熊谷」と、名物にしているところも骨っぽい。
浮世絵ポイント 画像00

画像01 8:55 明治天皇駐輦碑
 中山道歩きの5日目。8:55吹上駅前交差点を出発。間の宿・吹上宿の中心部だけど街はひっそり。昨日、菅さんが民主党代表選に勝利して新首相になったためか?通りが、閑散としている。…。
 駐車場の奥に明治天皇駐輦。明治11年(1878)北陸東海巡幸の際に小休止した茶屋本陣林本陣跡で、駐車場のブロック塀は車がぶつかったらしく、倒れかかっている。そして、碑の傍らには折れた石柱が…。「明治天皇聖蹟入口」と刻まれているので、中山道沿いに建っていたんだと思うけど、これも車にぶつけられたんだろうね。ドライバーには安全運転してほしいね〜。
画像02 9:00 吹上本町交差点
 吹上本町交差点を左折。すぐ合流する路地が(おし)高札場跡で、忍道は八王子千人同心が日光警備のために利用した日光脇往還(千人同心街道)でもある。右手の地蔵堂東曜寺を見学すると、中山道は右にカーブ。左手の路地がまた日光脇往還(千人同心街道)で、東松山・坂戸を経由して八王子へと続く。日光脇往還と中山道がほんのちょっぴりだけ重なっている。しかも、この付近が吹上の立場跡なので、往時は賑やかだったんだろうね〜。
 ところで、鴻巣宿〜熊谷宿間は16.4kmと長い。その中間地点にある吹上宿は交通の要所なのに、何で?正式な宿場にはならず、間の宿だったのか? 謎。
 吹上神社を横目に進むと高崎線にぶつかる。跨線橋のスロープの下に吹上宿の案内板&中山道間の宿碑が建っている。しかし、京に向かう旅人にとってはもう宿のはずれで、吹上宿はとっくに過ぎてしまっている。跨線橋に上って北側を見ると、本来の中山道の道筋が分かる。この跨線橋ができる前は踏切があったわけなので、「第五中仙道踏切跡」ってな案内板も建ててほしいね〜。
画像03 09:20 跨線橋から第五中仙道踏切跡を臨む
 蛇行具合を楽しみながら進む。浦和宿から長らく県道の歩道歩きが続いていたので、ようやく「旧道を歩いている!」という実感が湧いてきた。権八延命地蔵堂を過ぎると荒川の土手歩き。手書きの標識が左に回って土手に上るようになっているけど、右手に新しい道があるので進んでみると、ありゃ、土手に並行してなかなか合流しない。しかも、土手の斜面は芝生の養生中で立入禁止になっている。素直に左に回った方がヨカッタ…ガクッ。
画像04 9:30 くねくねと旧道 奥にあるお堂が権八延命地蔵堂
 車道と合流するものの、土手の上って気持ちイイ〜。ここが荒川の熊谷堤で、知らないうちに熊谷市になっている。愛輪ヨハンソン(仮)でも走ってみたいと思ったら、途中から砂利道となり、歩きづらい。ふぃ〜。
 右手に決壊の跡碑。昭和22年(1947)カスリーン台風の洪水で、この地点が決壊した。案内板とは別に郷土かるたが立っていて、「洪水の怖さ伝える決壊碑」とある。今は高い堤防があって安心なので、マンションが3棟も建っているんだね。
画像05 9:45 洪水の怖さ伝える決壊碑
画像06 9:55 日本橋から14里目の久下新田一里塚跡
 荒川は鴻巣宿で川幅日本一!だけあって、熊谷でも川の流れは見えない。対岸の河岸丘も遙か遠い。それに、河川敷が畑ばかりなので、河原の感じがしない。2棟目のマンションを過ぎると、眼下に馬頭観音がポツン。振り返るとマンションの角に鳥居ぐゎ! 土手の下に鎮座するお稲荷さまが久下新田(くげしんでん)一里塚跡。郷土かるたに「旅の案内中山道の一里塚」。
 荒川の土手には枯れ草ロールが並んで、作業員がトラックに積んでいる。のどかな風景だね〜。郷土かるたも並んでいて、「長土手に馬子唄のどか春の風」「『下に下に』は大名行列中山道」。そして、「灯籠も昔がたりの白蛇さま」「昔栄えた新川の河岸」「屋敷森のみが残りて昔を語る」…。へ?
画像07 10:00 初夏の風物詩? 枯れ草ロールのある風景
画像08 10:10 久下堤碑
画像09 100年前の久下新川村
 しばらくすると、荒川の土手が通行止めになって、「輪型の坂を下る大八」。坂を下ると、「後の世までも修堤記録 輪型の碑」久下堤碑
 久下の集落に入ると、久下公民館に久下新川(くげしんかわ)村の案内板が立っている。さっき郷土かるたに書いてあった「新川の河岸」のことが(?_?)だったけど、100年前の様子が描かれている。往時の久下は新川河岸があって賑わっていたようだ。しかし、河川敷に集落があったなんてビックリ!(◎o◎)
画像10 10:15 久下神社は三島様 三島といえば鰻?
 久下神社に「うなぎの伝説三島様」。社殿の奥には「山王猿は女性の神さま」「早舟の絵馬にも残る金比羅信仰」が鎮座している。境内にある碑には久下直光が勧請した三嶋神社だった旨が刻まれているけど、『中山道分間延絵図』には「飯玉権現」になっているので、またも(?_?)。久下神社を過ぎた辺りが久下の立場なので、代わりに境内で10分休憩。やはり、この付近は村はずれでも賑やかだったのか?久下神社の左側に久下村道路元票が建っている。
 県道257号の久下橋をくぐると、空き地に「成田山」と刻まれた門柱がポツン。「流灯会 今は昔の不動さま」。う〜む、門柱しかなく、何もない空き地なので、お“不動”さまがお“移動”さまになっている!(◎o◎)
画像11 10:35 ガランとした空き地の成田山
画像12 10:40 旧中山道碑が建つ大鍛冶屋↗
 民家に旧中山道碑。屋号が「大鍛冶屋」だそうで、碑は自費で造ったのかな? ここから車道は右カーブするけど、旧道は真っ直ぐ。
 荒川の土手をまた上る前に、右手の小径を進むと2つ目の「とり物言い権八地蔵」。元禄11年(1698)製で市指定有形民俗文化財。そして、「伝え聞く歴史に残る久下の鍛冶」。地蔵堂の前の小径が中山道だけど、残念ながら途中で消滅…。
画像13 お地蔵さまがしゃべる!? 権八地蔵
画像14 熊谷堤碑 題字は伊藤博文が書いたもの
画像15 道標がポツン… 腰掛け石みたいな…
 地蔵堂向かいの久下権八公園に「篆額伊藤博文 熊谷堤の碑」熊谷堤碑。熊谷堤の久下〜石原間約3qが、5年がかりで明治12年(1879)に完成した記念碑。しかし、その後暴風で倒壊してしまい、現在の碑は明治33年(1900)に再建されたもの。
 さて、この公園にはもう1つ大事なものぐゎ! ブランコの横に道標がうつ伏せの状態で倒りぇていりゅ!(◎o◎) 寛政8年(1796)製の塞神道標で、左面に「左松山道」、右面に「右熊谷道」と刻まれている。『中山道分間延絵図』を見ると、ここは熊谷堤に突き当たった丁字路の追分で、地蔵堂は土手の斜面に建っていた。塞神道標はこの追分に建っていたんだろうね。道標の通り、右に進めば中山道熊谷宿、左に進めば久下の渡しで荒川を渡って約10qで松山宿。道標が倒れたままなんて不憫。(>_<)
 熊谷宿は「八王子通り大山道」の起点で、おらとしては熊谷宿周辺には大山道道標はないの?と気になっちゃう。歩く前に熊谷市教育委員会に問い合わせたところ、残念ながら「大山」「八王子」などと刻まれた道標はないそうで、代わりにずっと手前の「松山」と刻まれた道標を2基教えていただいた。この塞神道標はそのうちの1基です。\(^-^)/
 久下のみなさ〜ん。久下権八公園に倒れている石柱は道標を兼ねた道祖神です。往時の久下村は中山道が通っているだけではなく、松山宿へ向かう街道との分岐点でした。この塞神道標は久下村が交通の要所だった証で〜す。地域の文化財として大事にしてやってくださ〜い。ぜひ立ててやってね…と思ったら、何と!
画像16 10:55 久下の渡し&冠水橋跡碑
画像17 現在の荒川の風景
 「水辺を守る九頭竜さま」を横目に迂回路の土手に上がると、「盛衰は世の習わし渡し舟」「渡る荒川 冠水橋」久下の渡し冠水橋跡。久下には渡しだけではなく久下河岸もあり、さっきの新川河岸と共に秩父と江戸を結んでいた。渡しは昭和30年(1955)冠水橋が架けられた時に廃止され、その冠水橋も残念ながら、平成15年(2003)さっきくぐった久下橋が完成した時に撤去された。橋の存続運動はあったようだけど、維持費がかかりすぎるので断念したそう。東海道島田宿の蓬莱橋のように、有料にしてでも残しておけば、観光名所になったんじゃないの?と思うので、残念。せっかく道標もあるのにね〜。
 すぐ土手を下りると「カッパの妙薬みかりやさん」。右手の戸森家がみかりや跡で、消滅していた旧道と合流する。ここが浮世絵ポイント@熊谷宿で、「英泉の描いた『八丁堤の景』」(TOPの画像)。
画像18 11:10 東竹院の達磨石
 左手に「丸に一の字ゆかりの家紋は東竹院」。「久下の礎 直光・重光公親子」「魚籠を持つ魚籃観音おわします」「沼の主が貸した千畳づりの蚊帳」「平然と雨にも風にも達磨石」「六道の衆生を救う六地蔵」と、郷土かるたが6本も立っているので、久下の名所なんだね〜。
 久下直光・重光墓所より気になるのは、やはり達磨石。寛文年間(1661〜72)に忍城主の命で秩父から荒川で運んでいる途中に久下で落ちてしまい、大正14年(1925)東竹院前の河原で発見された。形もさることながら、平然と約260年も見つかるのを待っていたなんて、忍耐強いところが達磨らしい。
画像19 11:25 さらさらの清流
 真っ直ぐな旧道を進むと、ものスゴく水が澄んだ小川! 思わず「春の小川」を口ずさみたくなるような清流。(^-^; 何と!「『県の魚』ムサシトミヨの棲む郷土」ここが元荒川ムサシトミヨ生息地。「武蔵富魚」という名の通り、以前は旧武蔵国の埼玉・東京に分布していたけど、今では世界で熊谷市にしか生息していないという絶滅危惧種。それだけ川の水が汚れてしまったということなんだね。平成3年(1991)に県の天然記念物に指定された。
 それにしても、何で?この川の水はこんなにキレイなんだろ?と思ったら、これは「水路」で、上流の熊谷市ムサシトミヨ保護センターからポンプで汲み上げられた地下水を流しているんだって!(◎o◎) 東京オリンピックの建設ラッシュで荒川の土砂が大量に採取されたため、荒川の河床が低くなってしまい、豊富に湧き出ていた地下水が枯れてしまったそう。もう自然の中でムサシトミヨは生きて行けないのか? 関係者のみなさんの情熱には頭が下がります。さすが、あついぞ!熊谷!
 ここで旧道は右折。何で真っ直ぐじゃないの?と思ったら、「過ぎし世の熊久や左富士」熊久橋が元荒川に対して直角に架かっているからだね。う〜む、中山道は日本橋からずっと左富士だぞ!と思ったら、京から日本橋へ向かう旅人向けだった。(^-^; しかし、熊久橋から元荒川をのぞくと、緑色に濁って汚い。これではムサシトミヨどころかコイも棲めない…。これが現代の川の現状なので、希少魚の保護は大変だね。
画像20 11:30 元荒川ムサシトミヨ生息地から右折
画像21 熊久橋の下は生活排水で汚れる元荒川
 さて、熊久橋の「熊久」は文字通り熊谷と久下の境界。ってことは、熊谷直実と久下直光が所領争いとなった現場? えーっ!ここが建久3年(1192)源頼朝の御前で訴訟対決中、裁決の前に直実が出家してしまう原因となった場所くゎ! 今は熊久橋の下を流れる元荒川って小川のようだけど、やはりそこは「荒川」、氾濫するたびに流れが変わって境界線が分からなくなり、昔からいざこざが絶えなかったんだろうね。おらは決めたっ。ここを史跡にしようよ。\(^-^)/
 ところで、教科書『中山道を歩く』とガイド・マップ『中山道散策マップ』のルートが間違っていて、元荒川ムサシトミヨ生息地の水路から右折せず、熊久橋も渡らず、真っ直ぐ熊谷宿へ向かっている。まさか?と思って『今昔中山道独案内』を図書館で立ち読みしたら、こちらも右折せず、熊久橋を渡らないで真っ直ぐ進んでいる。何故だー?
 かたや、『中山道分間延絵図』と迅速測図は右カーブして、これまた図書館で立ち読みした『歴史の道調査報告書 中山道』(埼玉県版)も右折してから、熊久橋を渡っているんだけど…。どうしてこんなことになっちゃったんだろう? やはり熊久橋は史跡にして、みんなで渡ろう熊久橋!\(^-^)/
 大雷神社に寄ろうと思っていたら、『中山道散策マップ』に載っている場所が違っていて、気がついたら八丁一里塚跡まで来ちゃった…。ガ━(゚Д゚;)━ ン !!! 責任者出せー!(人のせいにする)。熊谷駅が見えたら旧道は右カーブして、いよいよ熊谷市街に入る…ってゆーか、まだ熊谷宿自体には入っていないのに、吹上宿からここまでの内容が濃い。熊谷市は鴻巣市と組んで、吹上宿〜久下地区をハイキング・コースとして整備した方がイイと思うよ。
画像22 11:35 日本橋から15里目の八丁一里塚跡
画像23 11:45 熊谷駅北口に建つ熊谷直実像
 秩父鉄道の持田No.25踏切&高崎線の第六中仙道踏切を渡ったら、名前のない交差点でちょっと寄り道。熊谷駅北口の熊谷直実の写真を撮りに行きま〜す。あらかじめ地図で計測したら、この先で通る国道17号の筑波交差点からよりも、この名前のない交差点から行った方が、ほんのちょっとだけど、10mだけ短い。(^-^; しかし、残念ながら、客待ちのタクシーが思いのほか多くて、近くでは撮れなかった…。
 旧道に戻ると銀座1丁目交差点で国道17号に合流。今まで土手を歩いてきたけど、今度はビルが建ち並んで、ずいぶん都会になった。あれ?何だこりゃ? 筑波交差点は歩道橋があるだけで横断歩道がない! 足腰の弱いお年寄りや車椅子の人は交差点をどうやって渡るの? 国道17号は自動車専用道ではないのに、こんな道路行政はおかしい!(`ヘ´) おらが年取ったら、エレベーターもエスカレーターもない歩道橋なんて、体力がないので利用したくないよっ! 人間より車の方が馬力があるんだから、歩道橋より「車道橋」を造ってほしいね〜。国交省の天下り役人4〜5人分の人件費で造れるんじゃないの?…ってゆーか、すでに信号機はあるんだから、横断歩道を新設すれば安上がり。横断歩道だけなら国交省の天下り役人1人分の人件費でお釣りが出るでしょ。
画像24 12:00 筑波歩道橋から中山道(国道17号)を臨む
 右手に式内社高城神社。ご神木のケヤキが立派。天保12年(1841)製の常夜灯が市指定有形民俗文化財。青銅製で、台座に150名もの紺屋が奉納者として刻まれている。あっ!そういえば、さっきまであった郷土かるたを見かけない。熊谷市内にたくさん立っているのかと思ったら、あれは久下地区だけのものだったんだね。
画像25 12:15 高城神社に奉納された青銅製の常夜灯
画像26 12:30 血生臭くない千形神社
 末社に熊谷の地名の元になった熊野神社が鎮座。由緒によると、この付近一帯に猛熊が往来し、庶民の生活を脅かしていたので、熊谷直実の父:直貞が退治したそうだ。そこに熊野権現堂を築いたのがはじまりだけど、明治40年(1907)高城神社境内に遷された。元の地はどこなのか?社務所で尋ねると、市役所の先で歩くには遠いというのであきらめた。その代わり?高城神社の並びで、猛熊の血が流れてきた場所に建てられたという千形神社を勧められたので寄ってみる。しかし、おお!千形神社=血形神社だけに、ものスゴく血生臭い…ということはなく、訪れる人もなくひっそり。
画像27 熊谷天丼 メタボなお腹は大喜び!\(^-^)/
 旧道に戻ると市指定史跡札の辻跡。12:35札の辻跡の前にある清気庵茶屋で昼食。明治38年(1905)創業の老舗で、さすが熊谷市は小麦の生産量が埼玉県内で1位!というわけで?蕎麦屋だけど、メニューにうどんの種類が多い。喜多さんが注文んだ「めん付カツ丼」は蕎麦 or うどんが選べます。おらは熊谷天丼1,300円を注文。フツーの天丼のエビが中&小のところ、熊谷天丼は大&中+野菜1つ追加で、ボリュームたっぷり。お腹ポンポコリン♪
 55分の昼食で、13:30午後の部をスタートさせると市指定史跡本陣跡竹井本陣跡で、本陣の前だからなのか?手前のバス停の屋根が瓦で立派。本陣の横の鎌倉町交差点は追分で、八王子通り大山道の起点。しかし、地元では「大山道」と呼ばれてはいないようで、相州道・相模街道・石尊街道など、あるいは鎌倉街道などと呼ばれているみたい。
画像28 13:35 竹井本陣跡
画像29 13:45 市民のオアシス星溪園
 ここでちょっと寄り道。竹井本陣の別邸で、市指定名勝星溪園。元和9年(1623)荒川の洪水によってできた玉の池を中心とした回遊式庭園で、慶応年間〜明治初年にかけて造られた。玉の池は星川の源流でもあり、プチ森林浴ができて涼しい〜。
 旧道に戻ると目の前にデ〜ンと八木橋百貨店屋。鎌倉町交差点を渡ると、宿場の中心&追分だけに、横断歩道の先に熊谷市道路元標が建っている。八木橋の前を素通りすると、正面に熊谷寺(ゆうこくじ)。ちょうど大山道…ってゆーか、鎌倉街道の突き当たりにあるので、街道というよりも、鎌倉から長〜い参道が延びているって感じ?
画像30 13:50 熊谷寺 入山不可でしばし呆然
 しかし、熊谷寺の山門が閉まっている! 調神社の時と違って、到着がまだ昼間なのに! ひょ…ひょっとして、熊谷寺って夕刻時じゃないと開いてないの? …。熊谷直実の生誕の地&終焉の地なのでぜひ寄りたかったのに、「原則として日曜日、事前予約申込者のみ参拝可」だって…ガ━(゚Д゚;)━ ン !!!
 八木橋百貨店屋に戻る。明治30年(1897)創業の老舗で、何故か?店舗は中山道の上に建っている。元々の店舗は北側(右側)にあったけど、平成元年(1989)熊谷市の再開発事業で南側(左側)を増床して、旧道を取り込む形となった。しかし、店内で旧道の道筋を残しているのが素晴らしい! 入口には「あついぞ!熊谷」の温度計。平成19年(2007)8月に熊谷市で40.9℃を観測して、国内最高気温の記録を74年ぶりに塗り替えた。残念ながら?今日は23℃だけど、今まで温度計は市役所か熊谷駅前にあるのかと思っていた。(^-^;
画像31 13:55 中山道 in 八木橋百貨店 天晴れ!
画像32 宮沢賢治歌碑
画像33 正面西口の旧中山道跡碑
 八木橋の正面東口に宮沢賢治歌碑旧中山道跡碑。大正5年(1916)宮沢賢治が秩父地方の土性地質調査の途中、熊谷に宿泊して詠んだ歌。「熊谷の蓮生坊がたてし碑の旅はるばると泪あふれぬ」と刻まれているけど、おらとしては「熊谷の蓮生坊がたてし碑の門入れずに泪あふれぬ」。(T_T)
 八木橋店内の中山道を進むと左手が「名店銘菓百選街」。前回塩豆大福を買った梅林堂があるけど、最後のお店:十万石ふくさやに目をやると、「うまい うますぎる」ってなコピーが…。何を自画自賛してけつかる!と気になって、中山道とは関係ないけど、お八つに十万石を購入。店を出ると…つい裏口と思っちゃうけど、正面西口にも旧中山道跡碑が建っている。
 カラーリングされた旧道を進む。八坂神社を過ぎると石原南交差点で国道17号に合流。石原一丁目交差点のかめの道に道標が3基並んでいる。左右で次の通り。
左:明和3年(1766)製の秩父道志るべ 県指定旧跡
「ちゝぶ道 志まぶへ十一り」
中:安政5年(1858)製の秩父観音巡礼道道標
「秩父観音巡禮道 一ばん四万部寺へ/たいらみち十一里」
右:弘化4年(1847)製の宝登山道道標 「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」
画像34 14:25 秩父道道標群 ここから秩父へGO!
 ベンチに座っているおじさんに尋ねたら、元は国道17号沿いにあったもので、石原一丁目歩道橋を建てる時に移されたそう。どうせ移すなら秩父道に向ければイイのにと思ったら、歩道橋から道標の前に延びる小径が旧秩父道ということです。
画像35 14:45 日本橋から16里目の新島一里塚
 片側2車線の国道17号は、ここから片側1車線となる。石原北交差点を過ぎると二叉を左に旧道。さすが地元だけに、こんな場所にも梅林堂がある。(^-^; 右手に市指定史跡新島一里塚ケヤキが立派で、太い幹にサルノコシカケが生えている。喜多さんはサルノコシカケを初めて見たんだって。せっかくなので10分休憩。向かいに摩多利神
 左手に安永9年(1780)製の県指定旧跡忍領石標。「従是南忍領」と刻まれている。石標を過ぎた辺りが松原の立場跡。熊谷市は小麦の生産量県内1位だけに麦畑が多い。こんな暑い日は歩き終わったら麦酒を一杯飲みたいね〜。
 再び国道17号に合流…ってゆーか、横断しなくちゃいけないんだけど、さっきの筑波交差点みたいに、歩道橋はあるけど横断歩道がない! 何度も言うけど、人間より車の方が馬力があるんだから、歩道橋より「車道橋」を造ってほしい…ってゆーか、横断歩道を造れーっ!!!
画像36 15:20 歩道橋を過ぎると右に旧道
 車が途切れたのでふと気がつくと、あれ〜?歩道橋を利用していないのに、何故か?国道17号の右側にいる。あれ〜? よい子は真似しないで! 国道17号の標識を見ると東京から70km地点だって。この付近が玉井窪川越場跡だけど、細い用水路があるだけでピンとこない。しかし、地名のように窪地で、雨が降るたび増水していたんだろうね。
 中山道を挟んで南側(左側)が久保島の集落で、北側(右側)が玉井の集落。ややこしい…。旧道らしい雰囲気で不動堂稲荷神社などが点在している。集会所の名前が下茶屋なので、立場じゃなくても茶屋があったんだね。
画像37 15:30 麦秋の浅間さま
 玉井南交差点を渡ると、黄金色の小麦畑の上に浅間(せんげん)神社が島のようにモッコリと浮かんでいる。上ノ茶屋集会所を横目に中島酒店屋でPET飲料を購入。歩道がないので車とすれ違うたびにドキドキするけど、熊谷市玉井団地に真ん丸なのオブジェがあったり、観音堂石仏群があったり、退屈しない。
 16:00本日の終点に予定していた名前のない交差点。左折すると籠原駅だけど、まだ日が長いので、5km先の深谷駅を目指すことにする。
画像38 16:00 明治天皇小休所跡@籠原の立場
 左手に明治天皇御小休所跡。案内板の代わりに石碑の右面に由来が刻まれているけど、よく読めない。この付近は籠原の立場なので、明治11年(1878)北陸東海巡幸の際に小休みした茶屋本陣跡なんだろうね。
 熊谷市側に立派なエノキ。向かいの深谷市側には馬頭観音ほか、3基の石仏群。『中山道分間延絵図』によると、「東方村の一里塚跡にある馬頭観音」と書いてあるので、これって東方一里塚跡じゃないの? エノキの根元を見ると、少しだけ土が盛り上がっているし。地図上で1つ前の新島一里塚からの距離を計測すると約4kmだし。
画像39 16:10 日本橋から17里目の東方一里塚跡
 ということで、また熊谷市教育委員会に問い合わせてみました。ご親切に調査してくれて、やはり東方一里塚跡だそうです。YATTA!\(^o^)/ 往時の塚は一度平らにされたそうで、その後地元の方が一里塚の名残を留めるために土盛りをしたとのこと。標柱も案内板もないので、ぜひ案内板を設置してほしいね〜。(^-^;
画像40 16:20 石橋の立場跡
 南側(左側)も深谷市となり、鳥居がドミノのように建っている鬼林稲荷神社を横目に用水路。この辺りが石橋の立場で、名物がドジョウ汁。今でも用水路にはどじょっこだ〜の、ふなっこだ〜の、いるべなか? 石柱が建っているけど、何のための石杭なのか分からない。
 あっ!バス停が「東方鈴木屋」となっている。古い商店が鈴木屋と思うけど、立場に近いので昔は茶屋だったのかな? おっ!今度はバス停が「東方新井屋」。お肉屋さんが新井屋かな? バス停の名前になるくらいなので老舗なのかな? 籠原の立場の頃は元気だったけど、もう疲れてきたみたいで、訪ねる元気がない…。(^-^;
 東方町2丁目交差点を過ぎると郷社熊野大神社一の鳥居。元は式内社の白髪(しらかみ)神社だったそう。午前中に寄った久下神社が元飯玉権現だったり、鴻巣宿の鴻神社が元竹ノ森雷電社→鴻三社だったり、社号どころか神さままで変わるので、神社って難しい。長い参道を進むと、天正年間(1573〜92)に建立されたという本殿の彫刻が素晴らしい。市指定文化財。
画像41 16:40 熊野大神社本殿
画像42 十万石で舌鼓
 十万石八木橋店で買った十万石をお八つに10分休憩。広告の通り美味し〜い! 喜多さんと1個ずつ買ったけど、こんなに美味しいなら箱買いしてもヨカッタね。25分の寄り道。
 旧道に戻ると歩道ができてイチョウ並木。左手に鳥居があるけど、ズラーッと並ぶ石仏群。これは何? この付近に国済寺があるんだけど、旧道に面していないのでよく分からない。庭掃除しているおじさんに道を尋ねて、近道だという路地へ。
画像43 17:15 国済寺黒門
画像44 国済寺三門
画像45 上杉憲英墓&上杉氏歴代墓
 国済寺は掃除が行き届いて境内がなかなかキレイ。康応2年(1390)この場所に庁鼻和(こばなわ)を築いた深谷上杉氏の祖:上杉憲英によって開創された。市指定文化財の黒門三門がイイ味出しているね〜。黒門は江戸中期、三門は江戸初期に建てられた。境内の奥には応永11年(1404)に没した上杉憲英墓をはじめ、上杉氏歴代墓がズラーッと並んでいる。上杉憲英墓は県指定旧跡で上杉氏歴代墓は市指定史跡。さらに奥には庁鼻和城の土塁が残っている。国済寺の左手に鎮座する日吉大神荒神社を見学してから旧道に戻る。
 イチョウに混じって若い松が並ぶ。深谷市中山道ふるさとの並木道で、この付近は迅速測図でも並木になっている。原郷交差点で国道17号を横断するんだけど、あ!また歩道橋がある!と思ったら、今度はちゃんと横断歩道がある。イイ事だ。しかし、さんざん文句言っていたくせに、今回は歩道橋を利用。(^-^; だって、歩道橋の上で見返ると、見返りの松…ってゆーか、松が小っちゃい…。残念ながら、初代の見返りの松は枯れてしまって、平成18年(2006)に伐採された。現在の2代目は、NHK「街道てくてく旅」で中山道を踏破したてっしー(勅使川原郁恵)が深谷宿を歩いた時に、植えられていた松だね〜。
画像46 17:40 三角の角にてっしーが植えた2代目の見返りの松
 右手に市指定文化財旧深谷宿常夜燈。この常夜燈は明治時代のもので新しい。てっしーの浮世絵ポイント@深谷宿は上方常夜燈だけど、おらはてっしーと逆方向の日本橋→京を歩くので、この江戸方常夜燈をおらの浮世絵ポイント@深谷宿にする。まだ熊谷宿の巻だけど、とうとう深谷宿に突入しちゃった。(^-^;
 宿場に入ると歩道がなくなり、路側帯歩き。旧道(中央通り)のレトロな感じがイイね〜。名前のない交差点を右折すると東源寺。山門の脇に菊図坊祖英(きくとぼうそえい)が建つ。市指定史跡。行人橋碑を横目にレンガの卯建が立派な塚本燃料屋。元は菓子屋だったそうだけど燃料屋に転業して、この店舗は大正元年(1912)に建てられたもの。
画像47 17:55 菊図坊祖英塚@東源寺
画像48 18:05 和洋折衷でハイカラな塚本燃料
 ところで、東方一里塚から地図で計測すると、塚本燃料屋の手前の本住町交差点の辺りが深谷一里塚跡。しかし、『中山道分間延絵図』には深谷一里塚は載っていない。何故だー??? 宿場の中だと目印が不要で、取り壊されちゃったのかな?
 中山道深谷宿お休み処FUKADECKにベンチが! もうヘロヘロなので休みたいところだけど、もうすぐ終点なのでスルー…ってゆーか、寄る予定だった三高院・深谷城跡・富士浅間神社をパスして、18:10仲町交差点で本日の旅は終わり。ふぅ。約5km(寄り道入れて8km)追加しただけで、今まで歩いた歩数の多さで歴代4位!となった。ふぃ〜。深谷宿(中央通り)がレトロな感じでイイと思ったら、レンガ造り風の深谷駅舎もイイね〜。
画像49 関東の駅百選に選定されている深谷駅

画像50 久下権八公園の塞神道標
 あれから久下権八公園の倒れたままの道標が気になって、「倒れた道標をそのままにしてあるのは、現状保存が原則で、地域の文化財の保存はその地域の住民に任せる、というようなルールがあるの?」という旨を熊谷市教育委員会に問い合わせると、「当方もその重要性を踏まえて発掘を行い、公園内に立て直しを行った」という旨の回答を、写真付きでいただきました。YATTA!\(^o^)/ ということで、再訪しました。倒れていた塞神道標が熊谷堤碑の横に立っているので感激! しか〜も、台座付き。人知れず埋もれていた文化財が日の目を浴びてヨカッタよかった。メデタシめでたし。
 久下のみなさ〜ん。久下権八公園の塞神道標は平成23年(2011)1月に立て直されました。この機会に地域の文化財として大事にしてやってくださいね〜。
 せっかく再訪したので、本番の時に寄れなかった大雷神社にも訪れることに。『中山道分間延絵図』では神社の前に池があり、「元荒川水元」となっているので興味津々。あれ?熊久橋の1つ上流の橋に「値うちある元荒川起点の碑」元荒川起点碑なんてある! へぇ、河川って源流とは別に起点ってのがあるんだね。知らなかった。(◎o◎)
画像51 元荒川起点碑
画像52 ひっそりと大雷神社
 で、元荒川の源流大雷(おおいかづち)神社。2基の鳥居&祠の社殿でひっそり…。神社の前にはもう池はなく、元荒川の源流はドブ川と化している。しかし元荒川って、寛永6年(1629)伊奈忠治荒川の瀬替えを行う前は「現荒川」で、荒ぶる川だったはずなのに、こんなチョロチョロした小川? ずいぶん大掛かりな土木工事だったと思うけど、当時の堤防や瀬替えの遺構は見当たらない。
 気になったので、荒川の瀬替え(荒川の西遷)について調べてみました。荒川は山梨・埼玉・長野3県の県境にある甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)が源流で、秩父山地の谷を刻み、寄居町から荒川扇状地となる。ここから荒川は乱流して、古代は籠原付近を通り利根川に流入していた。中世は石原付近を通り熊谷宿の北を抜けて元荒川に流れていた。近世になって瀬替えが行われ、伊奈忠治が石原・久下で荒川の流路を締め切り、熊谷宿の南を流れる入間川水系の和田吉野川に付け替えられた。こうして旧和田吉野川が荒川となり、久下以南の旧荒川が元荒川となった。
画像53 久下の渡し&冠水橋跡から臨む荒川
 熊谷直実の時代の熊谷は旧荒川と和田吉野川に挟まれて、中州のような地形だったというのでビックリ!(◎o◎) 国土地理院の地形図を見ても、もはやそんな面影は見られない。しかし、石原って地名が“石の原っぱ=河原”なので、地図や風景からでは分からなくなっても、地名が記憶しているんだね。
 今まで大雷神社付近が瀬替えの現場と思っていたら、同じ久下でも、もっと下流だった。大雷神社の池から流れていたのは瀬替え以前の旧荒川の“支流”の1つで、河道が付け替えられ、元荒川となってから“本流”に昇格したんだね。
 しかし、思いがけず熊谷宿にハマってしまって、日記が長尺になってしまった。これまで1宿歩くのに半日だったのが、距離の関係で熊谷宿が1日がかりだったこともあるしね。初めて訪れた熊谷宿だけど、その分かなり詳しくなった。しかし、さすがにこれ以上のことは地元の方にお任せします。(^-^;

おまけ
所要時間(休憩除いた正味時間) 9時間15分(7時間50分)
万歩計®の歩数 36,683歩
喜多さんの歩数 35,567歩
寄り道含めたGPSの距離 28.2km
経費
往路:JR湘南新宿ライン戸塚駅→吹上駅「ホリデー・パス」
(戸塚駅→吹上駅普通運賃)
2,300円
(1,450円)
帰路:JR湘南新宿ライン深谷駅→熊谷駅
JR湘南新宿ライン熊谷駅→戸塚駅
(深谷駅→戸塚駅普通運賃)
230円
フリーパスのため0円
(1,890円)

Vol.07 鴻巣宿 2010 1日中、山道。 MENU Vol.09 深谷宿
TOP
Copyright (C) 2010 TORAZOU, All Right Reserved.